積善の家に余慶あり
積善館は「関(せき)」の姓を名乗る当主によって代々受け継がれて参りました。しかし、祖先は源⽒に仕えた「佐藤」姓の武⼠であったと伝えられています。その何代⽬かの⼦孫(佐藤肥後守清忠)が、1182年(寿永元年)に源頼朝より下関(現⼭⼝県)にあった所領とともに「関」の姓を賜ったことから「関」姓を名乗りました。
その後、関家は関東に移り、何代かの変遷を経て群⾺県吾妻郡中之条町⼤字⼤岩に居を構えました。その関家から四万に分家をしたのが、1613年(慶⻑18年)に没した初代
「関善兵衛(せき・ぜんべえ)」です。

その後、4代⽬か5代⽬の「関善兵衛」が1691年(元禄4年)に現在の場所に湯場と宿を作り(現在の積善館本館の建物で当初は2階建)、その3年後の1694年(元禄7年)に旅籠宿として開業をしました。
⼟地の⼈は「関善兵衛」のことを親しみをこめて「せきぜん」と呼んでいました。


明治時代に⼊り、第15代の関善兵衛が中国の古い儒教の経典「易経」の中にある『積善(せきぜん)の家に余慶(よけい)あり』(善いことを積み重ねた家には、かならず良いことが起こる。)という⾔葉に関連させて、呼び名の「せきぜん」を『積善』と表わし、その下に旅館を表す『館』を付けて、『積善館』という名前にしました。
現在の積善館本館の⽞関に掲げられている⼤きな⽊の看板の「積善館」の ⽂字は、この第15代関善兵衛の筆によるものです。 ※看板の⽼朽化が進み、補修が必要になった為に現在は新調したものを掲げております。また第15代関善兵衛の筆による「積善館」の看板は資料室に展⺬されています。
第18代⽬までは「関善平」と名乗っておりましたが、19代⽬からは関家にゆかりのある者が、その想いと歴史を引き継ぎ今⽇まで⾄っております。

四万温泉の起源は二説あります。
1つは、桓武天皇(737~806)の御代に征夷大将軍として蝦夷征伐に来た坂上田村麻呂が、この地で入浴したことが始まりという説。
2つ目は、延暦年間(782~806)に源頼光の家臣、日向守碓氷貞光が四万の地に訪れ夜に読経をしていた際、童子があらわれ「汝が読経の誠心に感じて四万(よんまん)の病を治す霊泉を授ける。我はこの山の神霊なり」という神託を夢うつつで聞き、覚めると湧き出る温泉を見つけたというものです。
このお告げと温泉に感謝しお堂を建て薬師如来の像をお祀りしたのが、写真の「日向見薬師堂」です。

日本では古くから温泉地に2週間以上長期間滞在して病気の療養をしたり、農閑期などの保養として体を休める習慣がありました。
四万温泉が出てくる古文書によると天和年間(1681~1684)には、四万温泉で温泉宿があったことがわかります。「共同浴場」「湯宿」「蒸し湯」「貸座敷有り」などの記録が残っております。
明治二十二年に県道が整備されたことで、人力車や馬車が通るようになり、入浴客が増加。四万温泉は湯治場としてにぎわうようになりました。

四万温泉は昭和29年に国民保養温泉地の第一号に指定されました。
国民保養温泉地とは、
温泉の効能が顕著
湧出量が豊富
付近の景観が優れ、環境がよいこと
など、温泉だけでなく環境よい温泉地であるとで環境省により指定されます。
建築・開業元禄4-7年(1691-1694)
積善館は元禄4年(1691)に本館を建築、元禄七年(1694)に旅籠として開業いたしました。
二階建ての典型的な湯治宿としての当時の面影は、本館玄関のどっしりとした太い梁や柱に残ります。